紅紫(四)

[ 肺腑の翹望(ぎょうぼう) ]

 黎深は言った。
『…あの餓鬼に、興味はない』
 躊躇うように。
『ただまた話がしたくて、此処に来た』
 惑うように。
『私は、お前に――…』
 けれど清苑を射抜くように見たその瞳。
 それに宿る何かを、清苑は知ったから。
(あぁ駄目だと、その先の言葉を、奪ったんだ)
 嬉しくなかった訳がない。
 望んでいた。
 自分と立場を同じくする者。
 孤独という点を共有できる者。
 心が震える程、嬉しかったのに。
(私は、…紫、清苑)
 動かせぬ事実が、黎深の手を取る事を拒む。


  雨中の再会


 ふと見上げた昊の蒼さに眼を奪われる。陽光の所為で薄められた瞳は、けれど其処から視線を引き剥がす事はない。
(…良い天気だ)
 久方ぶりの晴天。ずっと続いた霖雨が終わり、やっと本来の在るべき色を取り戻した昊。僅かな気温の変化に、夏が近い事を知る。
(外に出る事が難しくなるな…)
 無意識にそう考えた清苑はその真意を悟り、口辺を手で覆う。何を考えたと、表情が暗く翳った。
(考えるな。思うな。彼の事は、…何一つ)
 彼に会ったのはあの時が最後。それから一ヶ月がゆうに過ぎた。つまり彼とてもう私に会う気はないのだろう。もう、二度と。
(…当然だ)
 失礼な事を言った。最後まで話しを聞かず遮って。もしかしたら私が想像した言葉とは違ったかもしれないのに…、と考える自分にふと気付き、清苑は緩慢とした動作で首を横に振った。
(……もう、良い)
 どんな可能性を考えた所で清苑が会わないと決意した以上、それが唯一の答えだ。それ以外にない。
(なら、今私がすべき事だけを考えよう)
 言い聞かせるように宣言し、先ずは母上の所に行こうかと、清苑は止めていた足を引き摺るようにして踏み出した。


 何時ものような鈴蘭との遣り取りの後、清苑は何とはなしに剣の稽古場に行ってみようと、自身の宮とは違う方向へと歩き出す。
 そして近付くにつれて聞こえてきた声に苦笑を漏らした。また一人で素振りか、と思いきや。
「宋将軍、…と、茶太保?」
 ずっと此処に居るのではと思われる程良く見る一人と、滅多にこんな所では見られない一人の組み合わせを見て清苑は驚き、そして自分が何故宋だけだと見当を付けたかの理由に思い当たる。
(あぁ、茶太保は掛け声を出さない、静かな攻撃を好まれるんだな)
 それでも打ち合いの音を聞けば分かった筈だと清苑は自分の過ちを戒めた。先入観は感覚と反応を鈍らせる。もしこれが敵ならば、一人と二人の差は大きいと。
 考え込む清苑の存在に気付いた二人が、打ち合いを止めて清苑に近付いてきた。
「これは清苑公子」
「何やってんだ?」
 優美な物腰で礼をした鴛洵に対し、言いながらきょろきょろと辺りを見渡す宋。不審なその行動にどうしたんだと尋ねれば。
「あのちっこいの…劉輝、だったか」
「劉輝? あの子に何か用でも?」
「いや、今日は一緒じゃねぇんだなと思っただけだ」
 そう聞いて、清苑は一つ瞬きをした。何かを思案するようなその一瞬はきっと宋と鴛洵だから気付けた事で、恐らく他の誰かでは分からなかったかもしれない。そして何かの結論を出した清苑は、小首を傾げて短く問う。
「霄か?」
 劉輝と一緒に居る所を宋に見られた覚えはなく、まして宋は誰かの行動を気にする性分ではない。なのに清苑と劉輝が共に居る事を知っているという事は、誰かに聞いたという事だ。そう考えれば、自然と彼の近くにはどの情報屋よりも正確な情報を持つ存在が居る事に思い当たる。
 僅かな間で其処まで導き出した答えが、宋の頷きによって正しい事を知る。
「あいつが最近お前は第六公子に付きっ切りだと言ってたからな」
 お前が相手にするような奴を一度見たくて、とまるで劉輝を珍獣扱いする宋の言い草に、清苑は小さく笑って。
「霄は本当に良く見てるな」
 あの老人に知れない事象などない事を疾うに知りながらも、その抜け目なさには何時も少し驚かされる。劉輝と会うのは人目に付き難い禁苑の片隅で、だから今まで一人の人間とも会う事なく静かに過ごせているのだが…、と考えた清苑は、視線を二人から逃すように斜め下へと遣る。
(……いや)
 その言葉の嘘に気が付いて。
(会っている)
 たった一人だけ。あの場所で、清苑に。けれど。
(……止めよう)
 もう考えないと決めた筈だ。何度思った所で変わらない。だからもう良いのだと自分自身に言い聞かせ、きゅ、と一度強く手を握り考えと面影を振り払った清苑。しかしそれを鴛洵は見逃さず、そっと労わるように清苑を見て。
「…何か、悩んでおられますか?」
 その言葉に清苑が素早く視線を戻せば、鴛洵も宋も同じ顔をしていた。心配そうな顔。失敗した、と清苑は瞬時に悔いた。心が顔に出る。それは一番忌避しなければならない事なのだ。だから。
「―――いえ、何も」
 清苑は咄嗟に顔を作ってみせた。笑って、何事もなかったように。
 決して信頼してない訳ではない。宋を、鴛洵を。だがそれは、最早反射の行為だった。真意を知られる事は恐怖だった。誰であっても関係なく。反射の、恐怖だった。
 そんな清苑を見て、宋は複雑そうな表情で結ってある髪を撫で付けた。
「…なぁ、清苑」
 以前から、宋には思っている事がある。
「お前は賢いし、強い。才能の一言で片付けてしまうには、惜しい程にな」
 清苑はあまりにも完璧すぎるのだと。学にしても武にしても、他の追随を許さない彼の優秀さは人の手により研ぎ澄まされた氷柱のよう。自然発生のものでは、恐らくない。
 なのに、清苑はそれを生まれ付きの才能に見せかけようとする節があった。それで他人を惹き付けようなどとは、欠片も思っていないのに。
「でもな、俺はもうちょっと力を抜いても良いと思う」
 無理は何れ亀裂を生む。だから何処かで息抜きをしなければ、最後まで保ってはいられない。何時か何かを切欠に呆気なく崩れてしまうだろう。
 だから宋は自分らしくないと思いながらも助言めいた事を言った。清苑に、そうなってほしくはない。
「霄を見てみろ。あいつ、性格はとことん悪いが、頭は何であんな奴がと思うくらい良いだろう。その癖、偶にこっちが吃驚するような馬鹿やる事だってある」
 普段の飄々とした様子も、偶に見せる真剣な表情も、むかつく言葉を吐き馬鹿な事をするあいつも。その全てがありのままの霄である事を、宋はちゃんと知っている。
「あいつのようになれとは言わんし、ならなくて良い」
 だがな、と。
「俺はあいつがあぁいう奴だからこそ、友で良かったと思う」
 長所も短所も持ち合わせるあいつが、俺は人間的で好きだ。
 照れもなく宋は言い、鴛洵も微かに笑いながら、宋の言葉を引き継いだ。
「…そうですね。霄はほんのほんの、ほんの偶に、友であった事を幸せに思わせてくれます」
 長年付き合ってて偶にですから最低の友人ですね、と吐き捨てながらも、その顔は友を誇る顔で。
「ですから、清苑公子。宋の言う通り、もう少し力を抜いても宜しいのですよ」
 鴛洵はそう優しく言う。
「上に立つ者が必ずしも完璧でなければならないという法もありますまい」
 宋も続いて頷いて。
「そうだそうだ。お前の父親も霄と似たようなもんだ。違うのは人気がある点だが、同じく人としては不完全極まりねぇだろ」
 あまりのはっきりした物言いに、それは言い過ぎだと頭を叩かれ痛がる宋。文句を言われ、けれどそれをさらりと受け流す鴛洵。そんな彼等を見ながら。
「――――…羨ましい、な…」
 小さく小さく、清苑は唇を動かしたかどうかくらいの声音でそう呟いた。鴛洵に、宋に。信頼を寄せられ好意を集める霄が、心底、羨ましい。
(…霄に対し、嫉妬を抱く事になろうとは)
 何と言う事。霄に知られれば一生分の笑いを提供するようなものだ。
 そう関係のない事を考えて、自身の心から目を逸らそうとした。気付かない振りをしようと。…無理だった。
 途端浮かべた苦笑が剥がれ落ち、けれど…、と思う清苑の沈んだ心の声。それは宋の「あ」という言葉に、毀れて。
「雨か?」
 ぽつり。雫が宋の頬を濡らすのを機に、ぱらぱらと雨が降り出した。肌を打つ強さが次第に増す。
「ほら、宋が珍しい事を言うから雨が」
「俺の所為か?」
「きっとそうだろうよ」
「いや可笑しいだろ」
 きっと昔はその遣り取りが普通だったのだろう。今では落ち着き払い、こうして和気藹々と人前で話す事はなくなった彼等の一面を見ながら、清苑はそっとそっと溜息を昊に零し顔に雨粒を受ける。
 誰に何と言われても、自分はこの完璧であろうとする姿勢を崩せはしない。
(…何より)
 自分にそんな友は、一生涯出来まいと。


 二人と別れ、取り合えず自分の宮よりも近い鈴蘭の宮に邪魔しようかと思っていたが、どうやら雨脚はそれよりも速いらしい。諦めて近くにあった建物の軒先に逃れた清苑は、目的もなくただ漠然と庭院先を見る。
 しかしそれも束の間、眉をぴくりと顰めた。
「……?」
 見回した視線に何かが引っかかったのだ。何だろう、ともう一度庭院を凝視して、気付く。
(…あ)
 雨の中、昊を見上げる人影が在った。酔狂な、と笑おうとして、けれど出来なかった。
(――…あれは)
 水に濡れ、暗い景色に紛れて見え難くなったその服の色。それでも。
(準禁色…)
 見間違えよう筈も、ない。
(紅の、衣)
 ひくり、とひり付いた喉。思わず手を胸に遣り、きゅ、と衣を握る。それで何が解決する訳でもないのに、そうせずには居られなくて。
(……何故)
 何故、彼が此処に居る。しかも雨の中。いきなり雨に打たれたい欲求に駆られたか? 一概に否定は出来ないが、彼の性格上、無駄に雨に打たれるなんて事はしないだろう。だとすれば意味があるのだ。何かしら、彼にとって―――と其処まで考えて、漸く清苑は気付いた。
 雨で様変わりした所為で気付かなかった。…あぁ、そうだ。彼処は。
(一ヶ月前、彼と最後に会った場所…)
 認識すると同時に、清苑は屋根のある場所から足を踏み出していた。走りはせず、罠が仕掛けられているのではと恐れるようにゆっくりと。
 そうする間に、着物は雨に浸食されて冷たさが体温を奪う。それに気付き、雨に負けない冷笑が清苑の口元を彩った。
(まったく、何をしているのだろう)
 雨音が聴覚を支配する。雨粒が視覚を邪魔する。雨量が触覚を破壊する。そんな中で。
(殺されても、文句は言えない)
 何も遮蔽物がない庭院の真ん中ににじり寄りながら、此方は五感の内最も重要な三つが使えない。最悪だ。こんな事で命を落とす事になったなら。…本当に、彼に会ってから私の調子は崩されっぱなしだ。自分の行動が分からない。発言も危ういものばかり。殺される危険を自ら冒して、何がしたい。
(どうせ叶いはしないのに)
 そう考えながらも、足が止まる事はない。一歩一歩着実に彼へと近付き、そしてとうとう足が止まった。
 数歩先に佇む彼。それを見上げて、清苑は問う。
「…何を、している?」
 ―――紅黎深。
 近付いている事に気付きながらも決して此方を見ようとしなかった黎深が、清苑の声を聞いてゆるりと視線を灰色の昊から移す。雨粒がその美顔を滑り落ちる軌跡をぼんやりと辿りながら、地へと堕ちたその瞬間。
「……お前を、待っていた」
 雨音が溢れる中で、不思議と鮮明に聞こえた黎深の声。その言葉に思わず清苑が睫毛を震わせた事に気付いているのかいないのか、そのまま黎深はそっと言葉を紡ぐ。
「お前は言ったな。自分を、此処へ来る言い訳に使うなと」
 僅かな沈黙の後、子どものようにこくりと頷いた清苑。それを見て、黎深は溜息を吐くような声を出した。それが雨音を縫って届く。
「…ならばそうしようかと、思った」
 兄である邵可をその理由にしようかと。けれど黎深は直ぐさまその案を自分自身で却下した。
 確かに邵可に会いたいのは事実だ。滅多に家には帰らず、可愛い弟達との約束を破り続け、危険な仕事をし続ける。会える時に会えるものならば会いたい。
 その想いは、確かだけれど。
「しかし、お前と会うのに兄上を理由に使うのは兄上に対して失礼だ。…それに」
 そして、黎深がその考えを採用しなかった大きな理由。
「―――会いたいという私の気持ちを否定されるのは、酷く酷く、腹立たしい」
 黎深を遠離る事に、何らかの意味があるのだろう。王になりたいのならかえって黎深と懇意にする事は清苑にとって利益になれど損害にはならない筈だ。
 なのに清苑は黎深を拒絶した。黎深を遠離た。突き放した。それに酷く傷付いたのは、否定しようがない。それでも。
(ならばそれでも良い)
 勝手に清苑が壁を作ろうが、黎深には関係のない事だ。此方も勝手に踏み込んでいけば良いだけの事。また拒まれようが突き放されようが、何度でも黎深は拒む指を、突き放す手を掴むだろう。もう決めた。だからそれで、良い。
「私から逃げるなら逃げろ」
 そう言って黎深は膝を折った。濡れそぼった着物が今更汚れる事など厭わない。ただ雨が二人を別つ事だけは拒むように距離を近付ける。そして目線を清苑に合わせて。
「ただ、覚えておけ」
 黎深は告げる。笑いもせず、無感情な声で。雨に閉じられた世界。三度目の邂逅の中で。
「私が此処に来る理由は、お前以外に在り得ないと」
 そう言った黎深の瞳に灯る、雨に遮られていても分かる程の決意の光。意地とでも言い換えられそうなそれが、彼を酷く子どもに見せて、清苑は泣きそうな気持ちで笑った。
(……可笑しな、人だ)
 冷たさ以外の理由で強ばる身体。此処で頷けばどうなるのか、知っている、筈なのに。
「――…私、は…」
 震える喉を、震える手を、震える心を押さえ付けて、清苑はあの時言わなかった理由を口にした。
「私はきっと、貴方を傷付けるよ」
 清苑には分かる。殻を破れば黎深の素直さ純粋さは酷く繊細で、そして酷く傷付きやすいのだと。誰かに心を許す事はそういう事だが、黎深はまた誰よりも傷付きやすい。そんな黎深に手を伸ばす事など、清苑にはとても出来なかった。
 きっと傷付ける。酷く酷く、誰よりも酷く。何時か黎深の心に傷を負わせてしまうと、清苑は確信してるから。
 だから、と言う清苑に。
「…――その時はその時で良い」
 今度は黎深がそう言って清苑の言葉を奪い取り。
「それでも私は」
 冷え切った清苑の小さな手を包み込んで。
「――…お前が、良い」
 優しく優しく、笑う、から。


 夜半を過ぎても止まない雨。しとしとと囁き続ける雨音に褥に入る気も失せて、窓辺に立ち今日の事を思い返す。鴛洵と宋に会い、そして。
(黎深に、また会った)
 あの後一ヶ月来なかった理由を聞いた。そうすれば。
『雨が降っているのに、お前が外で遊んでいる訳はないと思ったからだ』
 だったら会えない可能性の方が大きいだろう、と。黎深が来ない事ばかりに気が急いて、単純な事を単純に考えられなかった。
(まるで私らしくない)
 何度目かのその言葉を繰り返し、そう笑った清苑。ふと一方の手を持ち上げじっと見詰めた。撥ね退け、それでも良いと、そう言ってもう一度黎深が取ってくれた手。
(ありがとう…)
 感謝の言葉が自然と溢れた。それと共に。
(―――…済まない)
 謝罪も、零れて。
(済まない、…黎深)
 霄のように、お前が友で良かったと言われる存在にはなれないだろう。黎深に対して清苑が思う事はあっても、きっときっと、清苑は黎深にとって最良の友には成り得ない。
 分かっているのに、それでも少しだけ夢を見たいと思ってしまった。
(少しだけ。…ほんの、少しだけ)
 それが誰も救わないと知りながら、手を取ってしまった。
(あの手を離す未来を、私は知っているのに)
 自分の犯した罪に溺れそうになる。それを防ぐように見た窓の外。降り続く雨。雨粒に濡れた窓に映った自分が、まるで泣いているように見えたから。清苑は無理に笑おうとして。
「―――……」
 静かに、泣いた。


20090923
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