紅紫(二)

[ 知音の邂逅 ]

 豪奢な造りの宮城を前に、少年から青年への過渡期に佇む彼は眉を顰めた。
 宮の装飾の細工、色彩の調和が見事なのは認めよう。
 手入れの行き届いた庭院、見苦しくない程度に放って置かれた野草も及第点だ。
 離宮の配置、その場に合った雰囲気も納得できる。
(けれど、それらは何ら心動かされる感銘を与えない)
 これ程整った中で、それは逆に面白いくらいだった。
 まるで中身の薄い漢詩を詠まされているような、そんな心地に似ていた。
 そんな漢詩は死んでいると言って良い。
 其処まで考えて、彼は心中ぼんやりと反芻した。
 あぁ、中に居る人間は生きていないのだ、と。


  王城の陥穽(かんせい)


 春も麗かな日だった。日中に参内した為、春とは言え薄着でも充分通用する日差しの中、紅黎深は一人で宮中を散策していた。
 しかし何処かに『影』は付いて来ているだろう。それでも見える範囲に誰も居ないというのは、それだけで気分が良い。
 紅本家の子息であるからには当然の措置とは言え、紅州からこの方、傍に誰も居ないという環境はなかった。貴陽に入ってからは幾分緩められただけのそれも、宮城に入ってから漸く一人でいる事を許された。
 彼にとって傍に居て欲しいのはただ一人の兄のみであり、それ以外はただ邪魔でしかない。何度か本気の殺意を覚えながら、けれど今回の参内が自身の我侭である事も充分承知していた黎深は、苛立ちを飼い殺す事で押さえた。
 そうしなければ兄の邵可に迷惑が掛かる。今回黎深が参内しようと思った理由が邵可にある事を知らない者は居ない。それ程までに黎深の行動理念は常に邵可にあった。
「しかし、…寂しい場所だ」
 奥に進むにつれ、その思いは深まるばかり。鎮まった外朝は、ただ公務をしている時間帯だからとでは済まされない何かがあるように思えた。そしてそれは、後宮がその姿を現した時に妙な確信を持って黎深の心に深く深く刻まれた。
(―――此処に、生はない)
 愕然と立ち竦む。居る筈の女人達の柔らかい笑い声、子どもの高声も聴こえない。外朝のように不自然な静けさが漂うだけだ。王が娶った女の数を、またその子どもの数を考えれば気味が悪い程に静まり返っている。
 その上外朝には感じられなかった、重く暗いものが取り巻いていた。死に触れているような暗澹とした空気が、容赦なく肺に突っかかる。
(息苦しい…)
 その重く暗いものの正体を、黎深は知っている。紅家には殆ど縁のない感情だ。それが此処には満ちていた。
「こんな場所が、後宮とは」
 吐き捨てるように言って踵を返し、黎深は颯爽と来た道を戻ることにした。それ以上其処には居られなかった。其処は空気が病んでいた。恐らく中に居る人間は、それ以上に。
(兄上は何をお考えになって、あれを私に見させたのか)
 参内を勧めたのも、後宮まで足を運ぶ事を勧めたのも、邵可だ。王宮を見学させようとした意図は分かっている。何時か黎深が何かの理由で国試を受け、官吏として勤める時の為だ。
 今の所黎深にその気は無い。国政に興味などないし、自分が居なくともそれなりに動く事も知っている。本当に何か、それも邵可に関する事でもない限りまた此処に来る事は無いだろう。
 だから疑問は一つに限られた。邵可が黎深に後宮を見る事を勧めた理由だ。勧められた時も何故か分からなかったが、見た後は尚更分からなくなった。あれは見るべきものではない。決して、見るべきものでは。
(妬み、嫉み、憎悪、殺意―――)
 静かなあの場所には、そんな感情しか渦巻いていなかった。
(聞き及んでいたが、まさかこれ程までとは…)
 誰も愛さない王。それを承知で娶られた筈の女達は、何時しか愛に狂い、王の傍らに侍る為に争い始めたと言う。並の神経ではあんな所に居られない。余程何かに執着し、強く願わなければ、あんな場所で息は出来ない。
(女達は王の愛を、子等はその玉座を、か)
 しかし離れてしまえば、黎深にとってそんな後宮はどうでも良い事に置き換えられた。王家に興味などない。逆に憎しみさえ持っている。勝手に妬み嫉み憎悪し殺意をもって殺し合うと良い。それが兄に何らかの災いを齎さなければ、それで。
 それでも一応脳裏に後宮の事を留め置いたのは、兄の言があったからに過ぎない。邵可の言葉がなければ、即刻忘れ去られた出来事だっただろう。
(さて、帰るか)
 散策は途中だったが、邵可に勧められた場所は見終わったので、黎深にとってそれ以上の散策は別段意味を成さなかった。兄への義理立てとして、一応官吏になった時に必要そうな地理も頭に入れた。もう充分だと判断し、黎深は真っ直ぐ門へと身体を向けた。
 しかし、その方角へ黎深が足を踏み出す事はなかった。
(―――音が、聞こえた)
 至極小さな、風が草木を撫ぜる音に紛れた人為的な音が、去ろうとした黎深を引き止めた。気付き、遅れて耳を澄ませば、乱れた呼吸音に行き着く。まるで手負いの獣が敵から身を隠し潜んでいるかのようだ。衣擦れの音はない。恐らく座っているのだろう。それは兇手ではない。兇手に狙われ傷を負った者の存在が、何処かに居る。
(何処だ? 何処に居る?)
 近くに居る事は分かっているのに、場所を特定する決定的な音が無い。何よりそれまで黎深にその気配を悟らせなかった手腕は感嘆に値する。だからこそ、黎深は興味を持った。
(これ程の者が、何故、罠に掛かったか)
 黎深は躊躇う事なく辺りを見渡す。その所為で体の重心がずれ、地面と(くつ)による摩擦音が新たに生み出されようが構わなかった。それは身を潜める相手に此方の場所を教えるようなものだったが、劣勢なのは相手であって黎深ではない。かえって黎深は捕食者の位置に居た。相手は動いていない。先程の呼吸音は凡そ分からない程潜められてしまったが。
(私を舐めてもらっては困る)
 一度聴いた音は忘れない。そしてその音を辿れば、相手にも辿り着く。暫く瞳を閉じ音を聞き分けた黎深は、再び瞳を開けた時、口元に深い笑みを浮かべた。
(―――捉えた)
 迷う事なく振り返り歩き始める。沓音を消す事はしなかった。どうやら相手は諦めたらしく、近付けども動く気配はない。いや、動けないのかもしれない。
 負傷しているという仮説は当たっているようだと自賛していると、視界に入った背の低い垣根の先に、薄紫が少し食み出ているのに気が付いた。
(あれは……)
 歩み寄ってかさりと垣根の向こう側を覗けば、其処には薄紫の髪を持つ子どもが小さく身体を丸めて座っていた。
 物音に気付いてか、それともその瞬間を最初から計ってか。子どもは身体を弛緩させると、ゆっくりとその(おもて)を黎深へと向け、翡翠の瞳を晒した。そして黎深が何かを言う前に、その桜唇が開かれて。
「―――紅黎深が、何用か」
 静かな、声だった。先程の乱れた呼吸からは想像出来ない、一切の震えを取り去った声。この庭院の隅である筈の場所が、まるで王宮の一室であるかのように錯覚させる事も出来そうな。
 けれど黎深は惑わされない。先刻までの高揚が引いていき、残るのはただ不機嫌の文字。
「……何故お前がこのような場所に居る」
 黎深を呼び捨てにし、敬いもしない明らかに年下のその少年を、黎深は知っていた。会った事など一度としてない。それでも分からない訳がなかった。
 薄紅藤の髪。翡翠の瞳。先程の兇手以上の隠れ方。そして何より。
(禁色の、衣)
 黎深の瞳が、凶暴な光に煌めいた。
「何故お前が―――――紫清苑」
 現国王の第二子で、六人の公子の中で一等文武共に優れていると噂される彼の事を、黎深も当然知っていた。王位を継ぐのは彼だろうと、まだ十の身で期待される子ども。
 だからこの場合、相手が己より年下であろうと幾ら好まざる相手であろうと、敬意を表さなくてはならなかった。
 恐らく彼の素性を知らなければ、多少なりと余地はあったかもしれない。しかし彼は国に興味のない黎深にすら名前を知られる程有名であり、そして黎深は無差別的に王家という括りを憎んでいた。
 酌量の余地無く、敬意は当然のように黎深の言葉から取り払われた。威圧的とも取れる黎深の言葉に、けれど清苑は気にした風は無く。
「休んでいた」
「―――は?」
「此処に居る理由を訊いただろう? 剣術の稽古で疲れたから休んでいたんだ」
 稽古場が直ぐ近くだから。
 そう言った清苑は何でもないような顔をし、あまつさえ、最近剣術の師が厳しくて、などと言い出した。怒気を削がれた黎深は呆れた顔で暫くその場に佇み、かと思うと不意に垣根を越えて清苑の隣に腰掛けた。清苑は、それを拒絶しなかった。
「………」
「………」
 何でもない無言の時間が過ぎていく。無駄と言えば無駄な、だが紫家と紅家の人間が互いの腹を探るには僅か過ぎる一時。
 先に口を開いたのは黎深だった。
「……何も用などない。ただ面白そうなものを見つけたと思ったらそうでもなくて、失望しただけだ」
「…そうか」
 苛立たしげな黎深の声と、律儀に質問に答えた黎深に対する清苑の小さな笑み。それが大人よりも大人な彼等を、不思議と歳相応(こども)に見せた。
「聞かないのか?」
 ふと、清苑が脈略のない会話を続けた。黎深は馬鹿にするなと鼻を鳴らす。
「時間と労力の無駄だ」
 その返事に、それもそうかと清苑も頷いた。清苑が聞いたのは、何故清苑が黎深であるか分かった理由。そんなもの、紅という準禁色を纏まとえる者で、年齢を考慮すれば誰だって分かる事だ。
「失礼した」
 鮮やかに笑った清苑に、黎深は瞳を細めた。それに気付いた清苑が小首を傾げ、黎深を見上げる。
「どうかしたか?」
 それは子どもの顔だった。何も知らず、何にも汚されず、何も傷付けない、まるきりの邪気(あどけ)なさ。純真と形容できそうな表情に、黎深は内心舌打ちをした。
(付き合ってられるか)
 それが擬態である事を知っている黎深は、そんな顔を見せられた所で警戒心はなくならない。それでも、少しでも触れようとしたらどうなるのだろう、と悪戯に思う。子どもの仮面を被った子どもが鋭利な刃物で大人の喉を突き刺す事を厭わない事も、黎深は知っていた。
(あぁ、だからこそ)
 その言葉は、するりと黎深の口を突いて出た。
「お前は馬鹿だな」
 清苑は瞠目した。疎ましがられる事も畏怖される事も良くある事だ。しかし清苑を貶す言葉を聞くのは、清苑自身初めてだった。
「…馬鹿?」
 その言葉が持つ意味を知らない訳ではなかったが思わず聞き返した清苑に、黎深は笑いもせず頷いて。
「あぁ、馬鹿だな。馬鹿と言うよりは、―――愚かだ」
 その言葉の差異など考えるまでもなかった。差異など無い。黎深はただ言いたかっただけだ。清苑が愚かだと。そして何を指してそう言っているかを、清苑は正しく理解できたから。
「……そうだろうな」
 素直に頷けた。誰もが清苑を褒め称える。それだけの叡智と武勇を清苑が兼ね揃えているのは事実だ。けれど。
「私はきっと、愚かなのだろう」
 震える手を、清苑は自身の目線へと持ってくる。
 その手の白さは元々白いと言って片付けるには悪すぎた。そして恐らく、顔は更に顕著に蒼褪めている事だろう。剣術の稽古で頬が紅潮する事はあっても、きっとこうはなるまい。自分でも下手な言い訳だったと清苑は自嘲した。
 普段ならこのような失態を清苑が演じる事は決してない。罠だと分かっていた。毒の存在など、火を見るよりも明らかで。それでも踏み込まずに居られなかったのは、唯一の存在を守る為。
「…理解出来んな」
 黎深はそう呟く。
「このような場所で、誰かに心を傾けるなど」
 あぁ、理解出来まい。清苑は黎深を見遣って思う。清苑だってあの子に会わなければ理解出来ないままだっただろう。策と毒と死とが一様に揃うこの場所で、誰かの為に生きる事は間違いなく自殺行為だ。己が一人でも、守る事は難しいのに。
(だから、愚かだと言ったのだろう?)
 黎深にはまだ分かるまい。誰かを支えにしなければ生きていけない経験など知らない彼には。守るべき人間などいない者には。
 それが哀しいと知っている清苑は、黎深を見る視線を少しだけ和らげた。それを知らずに受け止めて、黎深は言う。
「損な性格だな。紫清苑」
 侮蔑はなく感心の色の方が強いその言葉に、清苑は笑った。愚かだ損だと言う割りに、どうも彼はそれを羨ましく思っているようだ。
(……少し、分かる気がする)
 真実誰にも理解されず距離を置かれ孤高にならざるを得ないのは、天つ才を持つ者だ。黎深もその類に間違いなく分けられる。
 だから何かに心を割く事が出来ないのだ。そして割くだけでは生きられない。人でも物でも、何でも良い。何かに執着し守ろうと思えるものがなければ、人はとても不安定だ。清苑は、その事を身を持って知っている。
(独りは、寂しい)
 その寂寥に慣れて感じなくなりかけた時に出会った存在が、今の清苑を支えていた。たった一度の出会いは、大きく清苑の世界を変えた。
(…紅黎深、貴方もまだ、大丈夫だ)
 黎深はまだ寂しさを知っている。清苑を羨むだけの誰かとの繋がりを欲する気持ちも持っている。強がっていても。その弱さを誰にも見せていないとしても。
 だからそんな存在に彼も出会えれば良いと、そんな願いを込めて清苑はきっぱりと言い切った。
「それでも良い」
 損な性格と言われ愚かだと呆れられても、清苑は一向に構わなかった。そうであり続けたいとさえ思う。
「私は、だからこそ生きていける」
 その為なら毒を食う事など何でもない。傷付けられる事も厭わない。それを、清苑自身が許すなら。―――だから。
「紅黎深」
 呼び掛けられたその声に、黎深は思わず姿勢を正した。反射的とも言える己の行動に幾許かの苛立ちを持って黎深は眉を顰めたが、耳を澄ませる事は怠らなかった。何かを強いる事の出来る響きが、清苑の声にはあった。
 しかし呼んだ割に見詰める先の清苑は黎深を見ない。ただ横顔だけが見えて、少し黎深は面白くなかった。
 黎深を見ずに何を見ているのか気になって、それでもその視線を辿らなかったのは、辿っているうちに毒の所為で儚いまでに白い清苑が消えてしまう事を恐れたからだ。―――と、心に溢れたその感情に、黎深はぴくりと反応した。
(……恐れる…?)
 馬鹿な。王家がどうなろうと知った事ではない。ましてやこの愚かな公子がどうなろうと関係ない。
 そう言い訳した所で、黎深は自身の手が震えている事を知っていた。いくら握っても、震えは止まらない。
 そんな黎深を知らずに、清苑は詠うように言葉を紡いで。
「貴方も見付けると良い。命を賭して守ろうと思える者を」
 優しい微笑みは、冷徹と言われる黎深を惑わせる。そしてその言葉は、十を少し過ぎただけの少年が紡ぐ言葉ではなかった。
「……生意気な奴め」
 そんな反論じみた黎深の呟きを、清苑は受け流して。
「紅黎深。私は貴方が嫌いではないよ」
(嫌いではない―――では、何だ?)
 どっち付かずの言葉に、黎深は吐き捨てる。
「私は嫌いだ」
 清苑はそれに何も言い返さず、何故か安堵の笑みを見せたのだった。


 その日の内に邵可の住む紅家別邸へと足を運んだ黎深は、客間で邵可と向かい合わせに座って茶を飲んでいた。
 不機嫌そうな顔をして帰って来た黎深に、けれど邵可は黎深の機嫌がそんなに悪くない事に気が付いていた。何か出会いがあったようだと邵可は茶を啜りながら思う。そしてその出会いは、恐らく。
「……子どもに、会いました」
 話を纏めるのに充分な時間の後、黎深は話し出す。ぽつりぽつりと、それこそ子どものように。邵可は聞かない。ただ促すように言葉を紡ぐだけ。
「どんな子どもだったんだい?」
「クソ生意気な子どもでした」
 間髪入れず返って来た言葉に、邵可はずるっと椅子から転げ落ちそうになった。誰の事を言っているのか勘づいているだけに、その形容詞の不似合いさが際立った。
「そ、そうかい」
「えぇ。馬鹿で愚かで嘘も下手で餓鬼で年下で…」
 中にはあまり関係のない言葉すら含まれた延々と続く雑言に、邵可は溜息を吐く。気が合うと思ったんだけど…、と考える邵可に気付かないまま、黎深はふと長い言葉を区切り、でも…、と言って俯いた。今までの反応と違う黎深に邵可はおやと眉を上げて続く言葉を待った。辛抱強く、半刻程の時間を費やされても。そして零された言葉は。
「……あの子どもは、優しすぎるんです」
 自分の持たないものへの嫉妬と羨望。ちょっとした侮蔑。そんなものを含んだ声音に、邵可は一瞬動きを止め、そして茶器を机案に置いた。
「私には分かりません。……理解、出来ません」
 誰かの為に、命を懸けるという事が。
 言った黎深に、邵可は困ったように唇を引き結んだ。
 確かに黎深には分からないだろう。黎深が傍に居て欲しいと願う人間は、何かしら自身を守る術を持っている。邵可は当然の事、黎深の弟でもある玖琅だって、究極は百合姫だって同じ事だ。そして守る役目は何時だって邵可のもの。黎深は庇護されてきた人間で、庇護する人間ではなかった。それでも。
「何時か分かるよ、きっとね」
 邵可はそう言って黎深の頭を撫で、黎深は何も言わずそれを甘受する。
 その言葉は気休めでも何でもなかった。黎深にとって大事なのは国でも民でも、紅家ですらない。その意味で自由な黎深は、自身の興味のない事、関係のない事は歯牙にもかけず切り捨てていく。そんな黎深が、彼を意識した。
(その事実だけで充分だ)
 つまり黎深自身が彼を理解する事を望んでいる。良かったと、邵可は今までとは別の意味で息を吐いた。参内を勧めた事、黎深と彼との出会い、それが黎深に及ぼすであろう影響。後は、黎深と彼次第。
(世界が広がっていくね、黎深)
 もう自分だけではないと、邵可はほっと笑った。


20090411
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