紅紫(一)

[ 紅蓮の烽火(のろし) ]

 紅と藍が混じる昊が広がる時刻。
 尚書室に居た紅黎深は、何かに気付いて開けていた扇を閉じた。
(………)
 風の音が。
 梢の声が。
 昊の色が。
 変わった気が、して。
(………)
 何が起きる、と閉ざしていた目蓋をそっと開く。
(………)
 微動だにせず、ただ待った。
 森閑の中、ひっそりと。
 そして。
(………)
 人の気配。
 押し殺されたそれは、黎深が飼う『影』のもの。
 それだけで、黎深は。
(……あぁ)
 零された細い息は、まるで何かを愁嘆するよう。
 それは何処か、祈りにも似て。


  夕闇の飛報


 先王が死んで一年。末の公子が玉座に着いて半年。幾多もの官吏が私服を肥やすのに躍起になっていたその間、紅黎深がそれを助長させたり諫めた事は一度も無く、またそれ以前からもそれ以後も、国の為に何かをする気は全くなかった。喩え政が功を奏さず、昊が荒れ、禍が拡がり、民が死んでも、黎深は指一本動かさないだろうし、実際王位争いで国が荒れた時も眉一つ動かさなかった。
 何もせず遊び惚けている王に愛想を尽かした訳ではない。元より尽かす愛想など持っていなかったし、その上王に何も期待してはいなかったからだ。
 腐敗し続ける政の中枢にあって、それがどう転んでも市井の為にならない事を知りながら、黎深はただ其処に居るだけだった。
「君が何故此処に居るのか、私はずっと不思議だよ」
 そう言ったのは、黎深の兄、邵可だった。府庫で茶を淹れながら、邵可は尚も言う。
「大体、昔は絶対官吏なるかと息巻いていたのにね」
 邵可はその理由が自分にある事を知っていたし、何より黎深の性格上、誰かに遣われるという事を良しとしないというのも分かっていた。
 喩え尚書や太師になれたとして、その上に君臨する存在には決してなれない。黎深は紅家だ。それが唯一絶対の答えであり、覆らない事実でもある。
「まぁ在籍しているのが吏部だから良いものの、これが戸部だったり礼部だったりしたら、百合姫辺りが泣いて止めていただろうね」
 心底それを確信しながら笑う邵可に、黎深は溜息を吐き、問う。
「…だったら私以外の誰かが、吏部尚書の地位に就いた方が良いとは思わないんですか?」
 吏部が人事を司るだけとは言え、六部に割り振られている限り権力は他を圧倒する。つまりそれだけ発言は尊重される事となるが、黎深は尚書の座に着いてからこの方、建設的な発言をした事がなかった。良いか悪いかを問われて返答するくらいである。
 それならば自分以外の人間にその発言権を、と言う黎深に、邵可は緩やかに首を横に振ってその言葉を否定した。
「君以外の人間が尚書になったからといって変わるのは、発言の回数とそれと同等の数の死案くらいだよ」
 今の状態のままだったらね、と慰めるようにそう言って。
「それにしても君らしくないね、そんな言葉を口にするなんて」
 天上天下唯我独尊、傲慢冷徹怜悧を地で行く紅黎深ともあろう者が、己よりも他人を上に見るなど有り得ない。例外は極々小数の人間だけで、それこそ彩八仙を連れて来て友人だと紹介するようなものだ。
 そんな黎深が仮の話であっても自分の地位を他の者に渡すなどと言うとは。
(とうとう宮仕えに飽きたのだろうか)
 と考えて、しかしそうではないだろうと邵可は自身で否定する。黎深が此処に居る事を決め、居続けている理由に少なからず自分の存在が引っかかっている事を知っている邵可は、けれどそれだけでない事もまた知っていた。
 〈彼〉が此処に居る限り、黎深は余程の事がなくては此処を動かない。
 黎深にそうさせる原因の面影をそっと思い出し、小さく笑う。彼は今どうしているだろうと思いを馳せた邵可の内心を悟った訳ではないだろうが、それと同時に黎深の表情が硬くなる。邵可はそれを見逃さなかった。
「何かあったかい?」
 その問いに応えたのは、かちり、と鳴った扇だった。黎深は視線を落として答えぬまま、手に持った扇を鳴らし続けた。それは邵可の問いに答えようか迷う動作ではなく、その問いにどう答えるかの回答を得る為の動作だった。
 だから邵可はただ待った。黎深の気持ちが落ち着くまで、静かに。そして正確に十回鳴らし、その扇を膝に置いて黎深は邵可に向き直る。まだ躊躇いの色はあったが、それでも黎深は口を開いてこう言った。
「……今朝、太師に接触した者がいます」
 太師?、と邵可は幾分驚きの声を上げた。黎深は狸ともいえるあの老人を心底嫌い憎んでいる。そんな彼が今此処で出たのに驚いたのだが、邵可は一瞬ですっと視線を鋭くする。
 黎深が彼を態々見張る訳もない。そんな事はただ無駄であるだけだ。という事は違う人間を観察していた結果、彼に行き着いたという事だろう。
 黎深が進んで見張る人間などそういない…とそこまで考えて突然現れた答えに、邵可は思わず息を呑む。
「……まさか」
 大半の驚愕と僅かな絶望に染まった声に、黎深はそっと微かに頷いた。
「…あの、子どもです」


 吏部のある室へと戻る為に宮城を歩く黎深の足取りは傍目から見ても重かった。あの後邵可と僅かな会話を重ねただけで黎深は逃げ出すように府庫を出た。〈あの子ども〉と称した人間についての話は、黎深を酷く疲弊させる。それ故に邵可に弱音に似た言葉を吐いてしまった事が悔やまれた。けれど。
(……それも仕方ない)
 黎深は自分の心を恐らく兄が思っているよりも正確に把握している。何が弱みで、何が強みで、何が大切でそうでないか。黎深の中では確固たる序列があって、ただ外に出せばその対象が危険に晒されるだけだと分かっているので出さないだけの話だ。だから絳攸などは誤解し続けているのだが。
(あいつの事だからな…)
 そうぼんやりと考えながら角を曲がった時、黎深は前から歩いてくる姿に考え事をしていたとは思えない速さで誰かを認識し、睨んだ。その睥睨を軽々と受け止めた老人は黎深にふと気付いたように、けれど眼光を鋭くしている事は気付いていないように、何食わぬ顔をして声を掛けてきた。霄太師だった。
「ほぉ。何やら機嫌が悪いようじゃの、紅尚書」
 息災か、などと巫山戯た物言いに黎深の瞳は更に鋭利な輝きを帯びたが、狸の妖怪である彼に通じる筈もなかった。尚笑ったままでいる霄に忌々しげに黎深は一つ舌打ちをして、礼もなしに道を譲りつつそのまま進む事を選んだ。
「相変わらずじゃのぉ」
 まるで久々に孫に会ったかのような言葉に黎深は益々不快感を煽られたが、それは無視すれば良いだけの話だ。それでも立ち止まったのは。
「……何か聞きたい事があるようじゃな」
 黎深の様子に気付いた霄も立ち止まり、僅かに真剣さを帯びた声を出した。くるりと黎深は振り返り霄の背中を鋭く見詰める。そして。
「今朝、何の話をしていた?」
 策もなく『影』を付けている事を隠しもしない単刀直入な聞き方に、霄は薄らと笑みを浮かべる。それで良いというように数度小さく頷いて、霄もまた振り返る。そして一瞬交わった視線の強さに僅かな感慨を覚えつつも、霄は余裕の表情を崩さない。
「それを言う訳にはいかん」
 彼と会った事を霄も隠す気はなかったが、しかしその内容は言うべきではないのだろうと判断する。内容が内容であるし、何より、彼と黎深の関係を鑑みての事だ。
 霄も少なからず知っていた。そしてまだ、過去が過去に成り切っていない事も。ならば守るべきなのだろうと、そう自身の中で結論を出した霄は黎深にそれだけ言うと踵を返した。だが去り際に一言、付け加えた。
「それよりも大事な事は、あの方とわしが会ったという事じゃよ」
 それが全てだと言う霄の遠離る背を最後まで見送らず、黎深も目的地へと歩き始める。元より期待はしていなかった。その中で霄から彼と会った事の裏付けを得られた事が喜ぶべき事なのか、黎深には分からなかった。本当なら、宮城で出会うべき二人ではないのだから。
「――…黎深様?」
 そこへ突然耳に入った養い子の声に既に自分が吏部の室に足を踏み込んでいた事に気付いた黎深は、何でもない、と絳攸の訝しげな視線を振り切って尚書室へと滑り込んだ。
 其処が今日の全ての始まりの場所だと思い至り、疲れたように扉に凭れ掛かる。正面にある窓から見える昊が、もう闇が蠢く時刻である事を物語っていた。その時、月が闇を白く照らし出して。
(……何が起きる?)
 見惚れる間もなく、隠してきた過去を暴かれるような、そんな不安が黎深を襲った。


 沈黙と虚偽と変化を強いられた十三年間。その出発点で、王家は一人の公子を、黎深は一人の友を失った。そして半年間の空白を経て紅家直系の長子の家族となった一人の子ども。それが偶然である筈も無く、必然であった事で、その事実は幾人かの心に見えぬ傷を遺した。それは酷く緩やかに、そして確実に心を蝕んで。
 それでも彼等は何食わぬ顔をして過ごさねばならなかった。真実を口にする事はその子どもの生を奪う事に等しい。疼く傷と引き換えにしても、彼等は彼に生きていて欲しかった。
(それは酷く単純で、だからこそ、純粋な)
 沈黙と虚偽と変化―――その全てを受け入れた十三年という間。それが長いのか短いのか。幸福だったのか不幸だったのか。誰に問えば良いのだろう。
 黎深が自身に問うのなら、短く、けれど幸福だったと答えるだろう。以前のような対等の関係としては対面できず、呼び合った名も奪われて。それでもまた、彼に会えたから。
 そう感慨深げに心に零した黎深は、しかしある事に気付いて力無くひそりと笑った。
(……何と言う事だ)
 どうして、だろう。予感なのかもしれない。夕方の闇に紛れて届けられた報せに感じた、漠然とした未来に対する。
(全てが終わったように、言ってしまうのは)
 区切ってしまった。終わってしまった。短く、そして幸福だったと評した時間が。
(あの子どもが太師と見えた事で、停滞していた時が進み出す)
 それは根拠のない直感だ。けれどどうして笑い飛ばせないのだろう。こんなにも胸が痛いのだろう。―――どうして、否定、出来ないのだろう。
(何が、起きる)
 見上げた昊は動いていた。黒雲が白月を隠し、世界が闇に埋もれても、漏れ出す灯りが昊の移り変わりを宣言する。そして雲が晴れ、月がその姿を現した時。
(……違うな)
 黎深はその月を睨み付ける。鋭く強く、疑惑と困惑とをその視線に混ぜて。
(何をするつもりだ)
 そして黎深は呼び掛けた。
「―――…清苑」
 嘗て黎深が情を込めて呼び、しかし今では呼ぶ事すら許されぬ、友の名を。


20090719
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