真白

[ 青史の流離 ]

 始まりは全て其処。
 国の中心、政の中枢、彩の中核。
 紫氏が(いただき)に立つ宮城の中。
 物語は廻り回って此処へと立ち戻る。
 筋書き通りに。


  嚆矢(こうし)の帰着


 立ち止まる事を知らぬように、老人はある一箇所に留まるという事をしなかった。あっちに行ってはこっち、こっちに行ってはあっち、と言うように。気の向くまま其処彼処(そこかしこ)の室に入り、出ては回廊を歩き廻る老人が、ふと歩みを止めた事に恐らく意味はなかった。
 視線を動かし昊を見上げる。昊が動いていた。
 それを目で追っていた老人は突如胸に湧いた小さな予感に気が付き、次いで近付いてくる気配にその予感が何であるかを悟った。浅く息を吐けば、その間にも足音は響く。気配を消す事を知らないような遠慮のない歩み。それでも鳴る跫音(きょうおん)は、何処か優雅で。
 老人は徐にくと口元を引き結ぶ。太師として相応しくあるように、〈彼〉に対面するに恥じぬように。
 そうして回廊を曲がって現れた青年は、其処に老人が居る事がまるで当然とでも言うように揺ぎ無く歩を進める。神出鬼没の老人を捕まえられる者など、片手で足りる数しか居ないのに。
(薄紫の髪。翡翠の双眸。……あまりお変わりではないようだ)
 そう心中呟いた老人と少し距離を置いて立ち止まった青年は、臆する事なく真っ直ぐに老人を見据えた。
「霄太師。お話があります」
 宜しいですか?、と笑顔で聞いてきたその青年は、十三年前に紅家に拾われた子どもだった。老人はその正体を知っていた。紅家の長兄に拾いに行かせたのは紛れも無くこの老人だったのだから、当たり前だ。そして恐らく、その子どもだった青年もその事を知っていただろう。
 ―――高官には跪拝を。
 そのあまりにも普通すぎる礼を守らないという暴挙に出た彼なら。
「……何用か」
 表情を崩さぬよう聞いた声は、老人には珍しく小さな震えを伴っていた。十三年間の沈黙が破られるのかもしれない、その期待と。何かが変わってしまうのではないかという、その不安と。両方の気持ちを抱えた老人に、昔と変わらない笑顔でその青年は言う。
「現国王劉輝様の后に、我が主、紅邵可様の愛娘、秀麗様は如何ですか?」
 構えていた老人も、思わぬ言葉に絶句する。
 現国王が王の位に就いて早くも半年が過ぎようとしていた。が、突然降って湧いた王位継承に王は食いつきもせず、ただ最低限の都市機能を促す政治をするばかりでそれ以上の事をしようとしない。高官達が夜な夜な会議を開きながらもその打開策を見つけられぬまま、時は無為に過ぎていた。
 それを知る筈もない青年の提案に、知らず口調が変わった事に気付かないまま老人は探るように青年へと問う。
「………何を考えておられる」
 そうして探れた事など、その老人と言えども無いに等しかったけれど。
「―――何れ分かる」
 一瞬にしてがらりと雰囲気を変え言って捨てた青年に、老人は沈黙した。
 結局老人に彼の言葉の向かう先を知る術はない。彼が何れ分かると言うのなら何れ分かるのだ。それが絶対の方程式とでも言うように、必ず。
「……分かりました」
 何時の間にか逆転した敬う対象を、けれど二人はそれが当然だとでも言うように気にしない。だから。
「では、私はこれで失礼致します」
 突如最初の状態に戻ったそれも、二人は当然のように受け止める。敬って、敬われて。傍から見れば何とも可笑しな図に見えただろう。実際それはあってはならないのだ。片やただの衛士である青年と、片や王に次ぐ力を持つ老人と。その立場が逆転する事は、あってはならなかったのに。
(それを崩しても、あの方は何かをなさるつもりか)
 既に去ってしまった青年は、とても絶妙な場所で老人に話し掛けた。誰の眼にも留まらず、誰からも見えない死角となる場所。そして、その衛士が突然出てきても可笑しくない場所。ふと声を掛けた振りをして、そんな所まで計算づく。その冴えは、今も昔も変わりない。
(……何故)
 だからこそ、老人は胸の中で問い掛ける。
(何故、もう少し早く帰ってきてくださらなかったのですか)
 此処に、この王宮に。武官としてではなく公子として。そうすれば、老人はあの子どもを王にはしなかった。確かに王たる才はその身体に眠ってはいた、それでも。
(あの子どもは、元来王の器ではなかった)
 王には二種類いる。生まれもって王である人間と、徐々に王たる器を持つ人間と。ぎりぎりまで見極めなければ王として認められなかった、彼の公子。
(明らかにあの子どもは後者だった)
 あぁ、そして。
(……貴方は、前者であったものを)
 青年がまだ幼子であった頃、初めて会った時の事を今でも鮮明に覚えている。その時に確信した。彼の中に芽吹く王威が、何れ咲き誇る事を。
(けれど、それは実現しなかった…)
 外戚の謀反。着せられた罪。無実でありながら流罪を言い渡された彼。一度刑に処された彼を取り戻す事は不可能に近かった。例え先王がそれを願い、老人が画策しようとも。
 そして流刑地に辿り着く前に放たれた殺戮者達との応戦を最後に、彼の足取りは途絶えた。探させて見付けたのはその半年後だ。その間に何があったのか、老人に知る術はない。むしろ知る必要はなかった。彼が生きてさえいれば、それで良かったのだから。
 しかし傷付いた彼は此処に戻っては来なかった。だから老人は彼の代わりを立てた。彼の弟である、あの子どもを。
(出来れば忌避したかったが)
 あの子どもは王となるにはとても中途半端な弱さと強さを持っていた。誰かの傀儡(かいらい)になれる程弱くもなく、誰かを傀儡にする程強くもない。
 きっとあの子どもは大いに傷付く。いやきっと今までも傷付いてきた。王の座に就いたその時から。
(それを貴方は一番に嫌った筈なのに)
 二番目の公子が唯一心を掛けた六番目の公子。自らが傷付いてもあらゆる危機から守ろうとした彼。なのに、あの青年は子どもに王となる事を強制しようとしている。王の嫁を自ら選出するという事は、つまりそういう事だ。王に王たる自覚を持てと、促そうとしているのだ。
(王になれと、あの子どもに…)
 酷な事だと老人は溜息を吐いた。あの子どもの望みなど、老人には手に取るように分かっていた。あの子どもは待っているのだ。ずっとずっと、彼が流罪にされたと知っても尚、彼が此処に還ってくるその時を。
 願いを秘めた瞳が昏君(こんくん)とは思えぬ程強い事を知っている者は、恐らく朝廷三師と府庫の主、そして片手で足りる者達に限られる。そしてまた老人も待っていた。あの子どもと同じように、彼が玉座に就くという願いが成就される、その時を。
(しかし、貴方はそれを望まぬと仰るか)
 彼は此処に帰って来た。しかし公子としてではなく武官としてだ。それが彼の答えだった。ならば老人がどう目論もうとあの子どもがどれ程願おうと、彼が玉座に就く事は最早ない。惜しむらくは唯その一点。それでも。
(紅家直系の姫、か)
 それまでの思考を切り替えて、あの青年に言われた事を早速実行に移すべく老人は策を巡らせ始める。
(それにしても……、相変わらず何を考えていらっしゃるのやら)
 紅家の姫を、后妃に。出来ぬ事はない。その地位も名も、王の后になるに相応しい。だが彼の人もまた、あの青年の大事な守るべき人であった筈なのに…。
 何かあるのだろう。大切な二人を今の生活から追いやる意味。老人には察し得ぬ何かが。だからこそ。
(貴方が王であったのなら…――)
 どうしても願ってしまうそれを、老人は目を瞑る事で振り払う。それを彼は望んでいないのだ。
(ならば、それまでの夢)
 そして次に眼を開けた時、老人はまた昊を見上げた。青雲に飛び立つ白い鳥が、何処かへ向かって飛んでいく。
(……静かに、歴史が動いていく)
 誰かの手で。または、自然の流れで。
(それで良い)
 老人は思う。
(まだこの国は、動いている)
 風に押し流される雲の如く。ゆっくりと、けれど、―――確実に。
「さて…」
 これから、どうなるのやら…。
 その呟きに答えたのは、一吹きの微風だった。


20090411
戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system