pain
[ 運命が嘲笑った、ような気がした ]喪い続ける過去。
それはきっと何にも
ただ痛みにも、生れず。
世界は彼を見捨てたように輝いている
『あの人は昔、ボクシングの学生チャンピオンだった』
(その意味を、彼は正確に理解したのだろうか)
靴音を響かせながら歩き出した僕は、子ども達を背に考える。
ひっそりと沈んだ気配は、その言葉を考えているようにも、ただ呆然としているようにも感じられた。
《君のパンチを避ける事は造作もなかったけれど、敢えて彼は受けたんだ》
そんな事を僕は言いたかった訳じゃない。
それは彼の気持ちを慰めはしないし、ただ突き落とすだけの言葉になってしまう。
もしくは真田さんの優しさの安売りだ。
そんな事が言いたかった訳じゃない。
ただ僕は。
「……真田さん」
カチャリ、と結構歩いて辿り付いた部屋のドアを開ければ其処は電気がついておらず、それでも窓際に人がいるのが分かったのは、外からの明るすぎる光の所為だった。
窓から外を見る真田さんに呼びかければ、少しして振り返ってくれた。
「痛みますか?」
試すように言えば、小さく困ったように笑われた。
「まぁ、殴られた訳だしな」
(素直に痛いと言えないのは、どうしてですか?)
そんな事を問える訳はないのに、何時だって心の中で呟いてしまう。
殴られたら痛い。
それは当然の事なのだ。
みんなが一律にそう思う、一般常識と言っても良いその言葉を、真田さんは返すしかない。
(本当は、痛くないんでしょう?)
真田さんは手袋を外し、素手を張られた頬に宛がった。
そうやって痛みをやり過ごす風を装って、彼はきっとその殴られた為に生まれた熱を感じているんだと思う。
(だって貴方は、殴られる事に慣れてしまったから)
ボクシングとは簡単に言ってしまえば殴り合いの格闘技。
この人は誰よりも多くの試合と練習量を重ねてきた。
勝利の為でなく、守りたい人の為に。
だから、学生チャンピオンはただその結果でしかないのだけれど。
(その中で、貴方は痛みを忘れてしまったんだ)
殴られれば、痛い。
そんな、痛みを。
(あぁ、だから)
きっとその頬ではなく心の方に真田さんは痛みを感じているのだ。
痛いと感じられない―――真田さんを殴った彼に対する、そして彼の兄に対する裏切りとも言えるだろうそれを。
真田さんは許せないから。
(貴方は何時までも自分を責め続けて)
けれど、貴方の所為じゃないと、僕は決して言えない。
それは慰めにもならなければ救いにもならない事を、僕は身を持って知っている。
だからこそ。
(僕は何時までも貴方を救えない)
その方程式を崩せる解を求めようと足掻いても、僕は一向に導き出せない。
(僕は、貴方に救ってもらったのに。貴方の大切な人を、奪ってしまったのに)
そんな叫びたい思いを、けれど真田さんに向かって言える訳もなくて、僕はぎゅっと唇を噛み締めて俯いた。
少しして、そんな僕の耳に真田さんの小さな声が届く。
「慣れたと、思っていたのにな…」
視線を戻せば、何時の間にか真田さんはまた窓の外を向いていた。
彼の視線の先では明るすぎるネオンの波と騒音が溢れかえっていて。
何処までもこの部屋とは違いすぎるから、此処は世界に見放された場所なのではないかと錯覚しそうだった。
その中で。
「―――…痛いな」
硝子に映った真田さんが何処か遣り切れない顔で、そう
「…冷やさないと、ですね」
僕も静かに笑ってそう言うしか、なくて。
この人は何時だって痛みを抱えている。
治ったと思えば、次々と痛みは勝手に増えていく。
さよならばかりを繰り返して、なのに前を向かなければならないから。
誰が傷ついても、誰を傷つけても、前に進まなければならないから。
『あの人は昔、ボクシングの学生チャンピオンだった』
(それが、どうした)
慣れる訳がない。
痛みに、どうしたって。
(勘違いしないで)
そんな人だって、心まで傷つかずに居られる訳が、ないんだ。
20090401
〈何故誰も生きてくれなかったんだろう。彼も彼も、あの人も。(そうしたかった訳じゃないと分かってるのに、恨み言のようにそう思う) 〉