I call your name.
[ 我が儘を、どうか許して ]何処か公園の端。
小さな子ども二人が僅かな距離を置いてボール遊びをしていて、ねぇ、と片方の子どもが突然もう一方に呼び掛けた。
『あき、って呼んで欲しい、な』
『……何だ、それ?』
突然言われた言葉に、首を傾げた赤に近い茶色い髪の子どもは蹴っていたボールを地面に置いてそちらを向く。
その視線の先の銀に似た白い髪の子どもは、何処か照れたように俯いて。
『せ、先生が、仲のいい友達は、にっくねーむっていうので呼び合うんだって』
そう言ってたから…、と続く言葉は段々小さくなっていった。
髪と同じく色素の薄い肌が薄ぼんやりと紅くなっている。
ふぅん、と言いながらそれを見つめていた茶色い髪の子どもはその話の行き先を察したようで、じゃあ、と手を叩いた。
『お前も、俺のこと、しんじって呼べよ』
それでいいだろ?、と言うと、白い髪の子どもは少しだけ驚いて、そしてパッと花のように微笑んで。
『しんじっ』
呼ばれた瞬間、茶色い髪の子どもの胸に灯りが燈ったように温かくなる。
それと同時に、何だか酷く恥ずかしくて。
『な、何だよ。あき』
ぶっきらぼうに、そう言い返すのが精一杯だった。
起きたら午前二時過ぎ。
特別早く寝た訳でもないのにこんな時間に起きると無性に腹立たしさを感じるが、今日のシンジは怒る風もなくただ一つだけ溜息を吐いた。
ちらり、と横に視線を遣れば、思った通りにすやすやと眠るアキへと辿り付く。
(なぁんでこいつは毎晩毎晩毎晩、俺のベッドまで寝に来んだよ……)
起こしてとっとと帰れと言ってやろうか、という気持ちは何時だって心にあるのに、それを実行した事はない。
そこにはアキへの甘さとシンジの甘えが同居していて、シンジは何時だってそれを否定したくなるけれど、それが事実なのだからしょうがないと割り切る事もできてしまうシンジはそんな自分に苦笑する。
こんな時、随分と大人になってしまったと思うのだ。
だからこそさっきみた夢の幼い頃の子どもらしさに、少しではあるけれど、憧憬にも似た思いを抱くのかもしれない。
(懐かしい夢だったな……)
思い返せばはっきりとどんな服を着ていたかすら思い出せる。
それはただの空想を映し出す夢ではなく、事実を基にした思い出のリプレイなのだから当然かもしれないが。
(まだ施設にいた頃の)
それも入園したばかりの頃だったように思う。
シンジはわざわざ人の環に入っていくタイプではなかったし、アキはその頃今よりも人見知りが激しく、人の環に入りたくても入れないタイプだった。
そんな環から外れた者同士は何時の間にか一緒にいるようになって、其処にアキの妹もちょこんと入ってきた。
それが特別だと思った事はないし、そこそこ慣れてくればシンジにもアキにも、お互いだけでなく他の友達だってできた。
だけど気付けば二人は一緒にいた。
他の誰でもなく、アキはシンジと、シンジはアキと。
それでもやっぱりそれは特別な事ではなかった。
二人にとってそれは普通の事で、だから逆にニックネームで呼びたいと言い出したアキには違和感を覚えたものだったが。
(こっちの方が、普通になっちまったな)
最初の頃は慣れなかった。
アキから『シンジ』と呼ばれる度に心臓は高鳴るし、近いうちに死んでしまうのではないかと幼いながらに心配したものだった。
けれどようは慣れと言う奴なのだろう、少し時間はかかったけれど何時しかその状況にも慣れていって、それが普通じゃない事から普通の事へと変わっていった。
(……あぁ、そう言えば)
そんな頃だっただろうか。
アキ―――そう呼ばれる事を、アキが嫌がったのは。
それは丁度アキが妹を失ったばかりで、力をただ無心に欲してた頃だった。
『アキなんて、女みてぇ』
ある日ボロボロになって帰ってきたアキにビックリして、何があったと問い詰めれば、そう言われたのだとアキは感情のない声で呟いた。
声と同様、普段は喜怒哀楽がはっきりしているアキの顔にも、表情はなくて。
己の無力さの所為で妹を失ったと嘆いていたアキの心を、心無い言葉は容赦なく傷つけていった。
そんなアキに、何て言ってやれば良いのか幼いシンジは分からなくて。
取り敢えず消毒しよう、と薬を取りに行く為に立ち上がったシンジに、アキはぽつりと呟いた。
『シンジ、……アキ、なんて…嫌だ』
一瞬その言葉の意味を量りかねて、けれど察しの良いシンジは直ぐに理解してしまった。
(それは、もうアキって呼ばないで、…って事か?)
理解した途端、身体の力が抜けたようにシンジはしゃがみ込んで、ようやくアキの目から静かに流れた雫の放物線を見ていた―――そんな幼い日の一幕。
思い出した今でも、あの時のアキの静けさと己の動揺は常にない事だったと心が冷える。
(それでも、オレはアキと呼ぶ事を止めなかった)
止めてしまえれば良かったのかもしれない。
何度も泣かれた。
何度も怒られた。
それでも、シンジにとってアキはアキのままだった。
『シンジの意地悪っ…、なんで、嫌がってんのに…!』
とうとう手まで出されて、その頃には力のついていたアキの拳で殴られたもんだからシンジの右頬が腫れ上がった。
アキと呼ぶ為の代償行為になるなら、殴られたってシンジは良かったのに。
殴ったアキが、自分が殴られたかのように泣いた。
それは『アキ』と呼ぶ事を止めようとしないシンジへの絶望なんかじゃなくて、ただ、シンジを殴ってしまった事に対する自分への絶望だった。
アキはアキと呼ばれる度に傷ついて、アキと呼んだシンジを怒鳴る度に傷ついていた。
そんなアキを見ながら、アキと言い続けたシンジ。
別にアキを傷つけたかった訳じゃない。
アキを苛めたい訳じゃ、なかったけど。
(結局、アキが折れるまで、アキって呼び続けたんだよな)
まるで駄々をこねる餓鬼のようだと今なら吐き捨てられるのに。
あの頃は至極真剣だったのだ。
アキ自身を傷つけても、アキを泣かせてしまっても。
(ただそう呼ぶ事に、執着していただけで)
だけ、と言ってしまうには、けれど幼いシンジにとっては大きな理由だったのだ。
施設に来て初めて出来た友達。
君付けでも苗字呼びでもない、ニックネームで呼び合える、初めての。
(だから多分、アキと呼び続けたのは、呼ぶなと言われた腹いせだったのかもな…)
アキはアキなんだ。
ずっとそう呼び続けてきたじゃないか。
どうしてそれを簡単に変えられる?
アキはアキで良い。
誰が何を言おうと関係ない。
俺が、アキって呼びたいだけなんだ。
俺だけが許された特権だったんだ。
―――なのにどうして呼んで欲しいと言ったお前が奪う。
(そんな、他人にしたら、どうしようもない理由かもしれないけれど)
小さく笑って、シンジは過去を偲ぶのを止めた。
そして、眠るアキの髪にそっと手を這わせる。
短い髪は簡単にシンジの指を擦り抜けていく。
それに心細く思うのは、アキが何時かシンジの手から擦り抜けて行ってしまう事を恐れているからだろうか。
(……いや、違うな)
恐れているのは、自分の方が、アキに手を伸ばせなくなる事。
追いかければ捕まえられたアキを、追いかける事すらできなくなる事だ。
(もうこの手は、アキに届かない)
あぁ、どうやら今日は感傷に浸ってしまう夜らしい。
あんな夢を見た所為だ。
そしてアキが此処にいる所為だ。
やっぱり起こして自分の部屋へ帰してしまえば良かった。
明日眼が腫れてしまったらどうしてくれる。
そんな事は知った事ではないとでも言う風に、アキはただ幸せそうに安らかに眠っている。
もうあの頃の泣き顔なんて想像できないアキに、軽く触れるだけのキスをして。
「アキ…」
小さく名を呼ぶ。
祈るように、願うように。
寝ているアキに届いているかなんて分からない。
伝えたい訳でもない。
ただ守り続けていたいんだ。
最期まで。
もうこの手が届かないのならせめて。
「―――……アキ」
君が許してくれた、たった一つの君の名を。
20090401
〈もうこの手に掴むものは、ないのに。〉