ただ、明日がない

[ 冬枯れの小さな恋の話 ]



 呼吸をする。
 白い息が、天に向かう。
 寒い日だった。
 涙すら凍ってしまいそうな。
 そんな、日だった。





  little lover





 消灯時間を大分過ぎてから、そっと病室を抜け出した。
 看護師は気付かない。
 個室であるが故に、同室の者は居ない。
 その姿を見るのは、ひっそりと光る非常口の緑だけ。
 スリッパも履かず素足で足を運べば、音は限りなく小さくて、自分ですら歩いているのを知るのは床の冷たさを知覚するその一瞬。
 それも、階下に着く頃には分からなくなっていた。
 微かに上がった息を吐き、視線を泳がせる。
 何処だ、と探す耳に、コツコツ、と小さな音が何度か叩かれる音が聞こえた。
 その音源を辿れば、其処には。

「瀬人」
「…遊戯」

 待ち合いの、少し奥まった所にある長椅子に、悠々と座っていた小さな影。
 ほ、と息を零してそちらへと行く。
 近付く毎に、その姿が浮かび上がっていくのを見た。
 そして膝が触れ合う程に近くなれば、そいつの口元には不敵な笑みが、目元には優しさが灯っている事を知る。
 思わず、小さな笑みが漏れた。

「遅かったか」
「いや、こんなもんだろ」

 しっかし、子どもが二人もベッドから逃げ出したのも分からないなんて、看護師の奴ら怠慢じゃねぇの?、なんて。
 (おど)けた風に遊戯はそう言って、座れば、と言うように自分の隣を叩いた。
 こくりと頷いてそれに従う。
 そうすれば、横から肩に上着が掛けられた。
 見ればそれは遊戯の物だった。

「寒いだろ。夜間は流石に暖房切られてるし。それにお前、何で素足なんだよ。これで体調崩してオレの所為、なんて、勘弁してほしいぜ」
「……まぁ、そう言うなら、借りてやっても良い」
「ありがとうくらい言えよ、可愛くない奴だな」

 そう言っても、遊戯は笑っていた。
 それに救われながらオレは足を引き上げて椅子の上で体育座りをし、腕を交差させて遊戯の上着を身体に密着させた。
 埋もれるように首を竦ませ呼吸をしたら、遊戯の匂いが、確かにした。





 出会ったのは病院の庭だった。
 無口で無愛想なオレを持て余し気味だった看護師と両親から逃げて、一人でぼんやりとベンチに腰掛けていた。
 季節はもう十一月。
 寒さが身に堪えたが、少しすればその事に気付く事すらなくなった。
 ただ其処にいた。
 何も考えず何も思わず何も映さず何も聞かず。
 ただ其処にいて、その事だけで完結していたその時間と空間。
 それを壊す者がいた。

「楽しい?」

 風の音も鳥の声も、人の囁きすら通さなかった耳が、その音だけは拾った。
 驚きに身体を震わせてそちらを見れば、オレより少しだけ小さい紅い瞳をした少年が、パジャマの代わりだろうか、ジャージを着てオレの目の前に立っていた。
 何も答えずにいると、焦れたようにまた聞いてきた。

「楽しいのか? 一人でそうやってて」
「……楽しくは、ないな」
「そうか」

 聞いてきた割に、その返事に何かを思う事はないようで、少年はあっさりとそう頷くと。

「じゃあ、ゲームしようぜ」

 に、と笑ってそう言った。
 それが遊戯だった。
 聞けば同い年だという。
 病棟は違ったが、個室で退屈であると言う事、病院に飽き飽きしている事、でも退院できない事も、オレと遊戯は同じだった。
 そんな共通点がオレの頑なな心を開かせて、ゲームする事でお互いの心は通い合ったのだろう。
 看護師がオレを見付けて困ったように病室へ帰ろうと言った時、嫌だと、まだ一緒にいたいと思うくらいには、オレは遊戯の事が気に入っていた。
 それでも外にいすぎた事は確かだった。
 ゲームに夢中になるあまりそれまで気付かなかったが、さほど防寒せず出てきた所為でオレの身体は冷えきっていた。
 指先は白く、首筋がぞくぞくする。
 それを感じた途端、寒さは更に身を包んだ。
 遊戯もオレの異変に気付いたらしい、慌てたように直ぐに帰れと看護師の方へ背中を押してきた。
 それがとても不満だった。
 帰りたくなかった。
 あの白い箱には何もない。
 楽しさも面白味も希望も。
 なら此処で遊んでいたかった。
 身体を壊しても良かった。
 だって遊んでいた時は、とても満たされていたんだ。

「……嫌だ」
「瀬人?」
「…嫌だ」

 帰りたくない。

 少しずつ看護師に近付く事への嫌悪に零れた言葉。
 反発するように少し足に力を込めればその速度は遅くなり、遊戯は困ったようにオレの背を押していた手の力を僅かに緩めていった。
 そしてとうとう、ただ手を背に宛がうだけとなった時。

「……オレも、帰りたくはないぜ」
「………」
「お前と一緒にゲームしたり、喋ってる方が、何倍も、…どれくらいか分からない程、楽しいさ」

 さっき出会ったばかり。
 なのに、その言葉で分かってしまう。
 こう言ってしまう程に、互いにとって病室は寂しい場所なのだ。
 彼処には何もない。
 何も、ない。
 その空間はただ真っ白で、何も描かれていないキャンパスのよう。
 それがこれから先、何かで塗りつぶされるのなら、そうと分かっているのなら、まだ救いはあったものを。
 知っているのだ。
 その空間は、ただ、白でしか塗りつぶせない事。
 もう、白で塗りつぶされた後だと言う事を。

「けど、まだ早いだろう?」
「え…?」

 首を逸らす。
 遊戯の方に。
 遊戯は笑っていた。

「また会おうぜ、瀬人」

 何処で、とも、何時とも。
 言わぬまま、聞けぬまま。
 遊戯は走り去り、オレはその背を見詰めていた。
 ぼんやりと遊戯が走っていった方角を見て、そして言った。

「…また、か」

 言わなくて正解である時がある。
 聞かなくて正解である時もある。
 だから最後までは見なかった。
 その病棟に遊戯が入っていく姿を見たくなかった。
 自分も、出来る事なら見られたくない。
 走り去った事―――それが遊戯の優しさだと知った。

(まだ早い…か)

 その言葉の意味を、一体どちらに当てはめたのか。

(――…遊戯)

 どうして知らないままで居られないのだろう。
 特別頭が良い訳でもない、察しが良い訳でもない。
 なのにたった一つ、病気をするだけでこうも変わるのか。
 一人の時間が多すぎたか。
 誰もを拒んできた所為か。
 分かる訳もない。
 ただ。

「またな」

 土を剥き出しにしている地面に向かってそう言った。
 春はまだまだ遠そうだと、思った。





 それから暫く体調を崩してしまったが、案外早く会う事が出来た。
 遊戯は出会った場所にいた。
 其処にいるのが当然のような顔をして。
 よう、と片手を上げてオレを迎えた遊戯。
 何だか可笑しくて笑った。
 遊戯はそれを見て一瞬驚いて、その一瞬後に、遊戯も笑った。
 暖かかった。
 その時間、その空間だけ。
 一足先に春が来たかのよう。
 まだ季節は冬。
 明けの見えない、冬だったのに。





 色んな話をした。
 色んなゲームをした。
 看護師に見付かれば二人で隠れ、其処が見付かれば場所を移した。
 鬼よりも怖い看護師を相手に、何度も何度も鬼ごっこのような事を繰り返した。
 時には庭で。
 時には屋上で。
 時には食堂で。
 時には病院の外で。
 行く先を何度も変え、する事を何度も考えた。
 尽きる事はなかった。
 する事も笑う事も話す事も遊ぶ事も。
 本当はただ、傍に居るだけで良かった。
 傍に居るだけで、良かったんだ。
 でもそうするには、オレ達はまだ子どもで。
 だから、何かをしていなければと思い込んで。
 そして。
 何かを話してはいけないと、分かっていたから。
 笑った。
 話した。
 遊んだ。
 楽しかった。
 でもきっと。
 心の底からでは、なかった気がする。





 そうして十一月が過ぎていって、直ぐに十二月になり、年が明けた。
 光陰矢のごとしだと、知ったように遊戯が言って笑った。
 そうだな、とオレも頷いて、その笑みを見ていられなくて、一年の始まりの太陽を見た。

(……痩せた)

 出来る限り会っていたつもりだ。
 けれど、やっぱりお互い病人、何時も、という訳にはいかなくて。
 会えない時は本当に会えなかった。
 そして互いに連絡手段はなく、だから会おうと思ったら、それまで会ってきた場所を順繰りに巡るしかなかった。
 大抵はオレが体調を崩して会えないのだが、今回は遊戯が何かの検査か、何時もの場所には来なかった。
 年が明けて、久々に会えた遊戯は、(やつ)れて見えた。
 しかしそれをどちらも言う事はなく、ただ言葉を重ねて時間を過ごした。
 それからそう言う日が増えていった。
 今までは遊びに八割、話しに二割だったのに、逆転し、そして二月に入る頃にはほとんど遊ぶ事は出来なくなった。

(遊戯が…弱ってる)

 何時もの場所に来る。
 そして話もする。
 身体が許す限り、ずっと。
 なのに、以前は鬼のように怒っていた看護師が何も言わなくなった。
 諦めたのでない事は、その視線から、表情から、分かる。
 分かって、しまう。
 身体の線も細くなった。
 食がどうやら細くなったようだと、話をする内に知った。
 体調が直ぐに悪くなりがちになった事も、知った。
 それでも遊戯はオレに会いに来る事を止めなかった。
 オレはそれを迎えるしかなかった。
 弱っていく遊戯を見ながら、笑って、話して。





「十四日の晩さ、…会おうぜ」

 そう言ったのは、直前の、金曜だったか。
 ふと思いついたように遊戯は生き生きとした顔をして、楽しそうに笑った。
 そうしよう、そうしよう。
 そんな声が聞こえてきそうな程、楽しそうに。

「晩?」
「あぁ、消灯時間の後。瀬人も大体看護師達の見回りの時間のパターン、知ってんだろ?」
「知ってる、けど」
「それ潜り抜けてさ、…そうだな、一階の待ち合いの、長椅子いっぱい置いてるとこで」
「大丈夫か?」
「いけるだろ。ちょーどその日バレンタインだし、あいつらも見回りより噂話に花咲かすだろうさ」
「…あぁ、そうだな」

 決まりな、と笑った遊戯の顔。
 最近で一番良い笑顔の筈なのに。

(消えてしまいそう)

 なんで、そう思ったのかな。





「寒いなー、瀬人」
「そうか?」
「そう…って、そうか、お前にオレの上着、貸したんだっけ」

 ひそひそと言葉を交わす。
 ただ身を寄せ合って、話して、笑って。
 昼間するように。
 ただこの時にもそれを繰り返して。

(なんでこの日なんだ…なんで、こんな時間なんだ)

 聞きたい事を胸にしまって、ただ遊戯が望むように。

「ほら」
「ん?」
「貸してやる」
「って、元々はオレのだっての」
「気にするな」
「あーはいはい」

 独り占めしていた遊戯の上着を、遊戯の細くなった肩にも掛けてやる。
 その分前が広がって、幾分寒さが押し寄せたが、遊戯がオレの手を握って自分の方へと引き寄せた。

「こうすりゃ、暖かいだろ」
「…うん」

 遊戯の体温。
 遊戯の息遣い。
 遊戯の匂い。
 絡まったままの手。
 全てが、身近にあって。

(このままで、…このままずっと、時が止まれば良いのに)

 そんな事を、考えた。

「瀬人ー…」
「何だ」
「ごめんな」
「…何がだ」
「こんな寒い日に呼び出してさ」
「あ、あぁ、そんな事…気にするな」
「しかも今日、バレンタインだぜ」
「そうだな」
「寒い通り越して、男二人でサムイって言われても、しょうがないかもな」
「言わせとけ」
「…気にならない?」
「気にならないし、気にしない」
「……そっか」
「…うん」

 言葉が夜に消えていく。
 声が空気に消えていく。
 消えて、いく。

「…瀬人」
「今度は何だ」
「…………幸せ、だったよ」

 そう言って、すり、とオレに擦り寄るようにオレの肩に頭を置いた遊戯。
 耳が痛いほど、それはあまりにも静かで小さな、一つの命の終わりだった。





 ……なぁ遊戯。
 バレンタインの起源となった聖人が居るのを知ってるか?
 そいつは、故郷に家族が居ると士気が下がると言う理由で王が婚姻を禁止していた時代に、秘密裏に兵士を結婚させて捕らえられたんだ。
 そして、二月十四日に処刑されて殺された。
 ………なぁ、遊戯。
 愛する者と共に居る事を願ってやった宗教者には、明日がなかったんだ。
 二月十四日の次の日を、そいつは永遠に喪った。
 それでもそいつは幸せだっただろう。
 人の願いを、願われた事を、叶えてやったんだから。

(ただ、明日がなかったんだ)

 遊戯。
 お前の、ように。
 そして―――…。





 時計は既に一日の終わりと始まりを告げていた。
 夜はまだ深くなる。
 寒さもまだ消えない。
 ただふと吹いた一陣の風だけが。
 春を連れてきたかのように、暖かかった。





戻る



 20100214
〈春を知らないまま死んでいく。桜が散るように、雪が溶けるように、言葉もなく、ただ。〉





PAGE TOP

inserted by FC2 system