神サマの名前
[ 少年は荒野に佇む ]たった一つで良い。
それがあれば、多分、
in my dream
明日の為に休息を。
それの何処がおかしいものか。
特に俺ほど忙しくなると、一分一秒でも多く睡眠を取りたいと思う事になんら不思議はない。
切実な願いだ。
なのに最近の睡眠時間はその願いを裏切る事にかけて群を抜いている。
五時間を切った辺りからは布団を出たくないと目覚まし時計の音を聞かなかった事にしようかなどと子どものように思うほどだ。
それほどに、逼迫した俺の睡眠状況。
モクバなど見かねて俺の仕事を隠そうとするし、何とか言いくるめて出させるものの、実際は秘密裏に処理された書類は幾つかあるのだろう。
けれどそれがモクバに処理できたということは、本来ならモクバで留め置いても問題のなかった書類だと言う事だ。
担当の社員に注意を喚起しなくては。
そんな事を考えながら、俺は現実から逃げようとしたのだが。
「――――聞いてんのか、海馬!」
耳栓をしていても聞こえそうな声が思考の世界に耽溺する俺を引っ張りあげる。
あぁ、全く。
「煩い紅葉頭俺が寝ようとしているのが分からんのか馬鹿がふんっまったくこれだから紅葉は」
一息で言っても辛くない。
ふ。
これもこいつを想ってこそ。
言葉に生えた幾千幾万の棘など、瑣末な事だ。
「……海馬」
「何だ」
「俺だって、傷付くんだからな」
は。
冗談を言うなら笑えるものにせんか馬鹿者が。
傷付く?
それはエジプト語か何かか。
「おい海馬。全部声に出てるぞ」
「出してるんだ」
「……」
「……」
「……ま、良いや」
「良いのか…」
あっけらかんと言われれば応戦した俺が馬鹿みたいだ。
いや、馬鹿なのだ。
この時間この場所にこいつが此処に居る事自体が既に愚かな事なのだ。
誰だこいつを入れた奴は。
明日辺り解雇か。
まぁそんな事よりも。
「帰れ。寝る」
端的に紅葉でも分かるように言ってやれば。
「無理。モクバに頼まれたから」
端的に返されて、且つ驚いた。
「何?」
モクバに?
うむ。
じゃあ先程の言葉は取り消しだな。
「具体的に言え。何を頼まれた」
そう、言えば。
「お前の傍に居てやる事」
そっと手が俺のそれを掴む。
驚くほどの温度差に、ぴくり、とした。
「お前にしか出来ないからってさ、モクバに言われちゃあな」
今まで一度も遣らなかった視線をそいつに向ける。
……何故、だろう。
輪郭が、歪む。
「何も考えるな。疲れてるんだよ。お前は何時も頑張りすぎるから」
その言葉と共に、視界を、奪われる。
小さな手に。
俺よりも冷えた、その、手に。
「―――嫌だ」
唐突に、そんな言葉が出た。
子どものような言葉だと。
何時もなら、気付くのに。
「嫌、や、だ……―――ゆうぎ」
手を伸ばす。
光を奪われた闇の中。
あぁお前はこんな所に三千年も居たのかと。
不意に思って不意にその言葉はそのまま消え失せて後姿も見えやしない。
あぁ今何を思っただろう。
意識が混濁していくような。
泥沼に嵌っていくような心地の中。
それでも手を伸ばし続ければ。
絡む、指。
そして。
「瀬人」
呼ばれた名が、酷く、懐かしい。
それは誰も呼ばなくなった名だ。
嘗て愛情と共に呼んでくれた両親とは死別し、侮蔑しか抱けなかった義父は勝手に死んでいった。
モクバは俺を名で呼ばない。
だからその名を呼ぶ者は、こいつしか居なくて。
あぁなのに。
どうして、懐かしいと思ったのだろう。
それほどまでに会っていなかっただろうか。
分から、ない。
「瀬人」
そんな思考は、名に込められた感情に攫われる。
少し起こしかけた身体は促されるまま再度また寝具に横たえられ、音が二人分の体重を支えている事を微かに告げる。
耳元で、声が、囁く。
「眠れ。ゆっくりと」
お前が寝るまで、俺は此処に居るから。
熱の孕んだ声。
震える、声。
それに声を出す事を拒まれて、問う事が出来ないまま俺は唇を喘がせた。
俺が、寝るまで。
では。
寝た後は。
寝た後、お前は何処に行く。
「遊戯、…ゆぅ、…」
まだ視界は奪われたまま。
縋るように伸ばした手も、そのままで。
その指を自分の方へと引き寄せる。
こっちへ。
もっと、こっちへ。
その無言の要求に気付いたそいつは、くすり、と笑ったようだった。
そして。
距離が近付く。
距離が、なくなる。
「――――ん」
息が、出来ない。
したくない。
けれど。
離そうとするのを許さない。
離しはしないと追いかける。
そしてまた。
息の出来ない時を重ね続けて。
「―――お休み、瀬人」
その言葉を最後に、俺は眠りの深淵へと潜り込む魚となった。
「………ん?」
気付けば、朝だった。
「ん?」
何故だ。
ベッドに入った記憶がないぞ。
「過労か…」
これまで何度かあった事だ。
あまり気にせず身支度を整え階下へと降りる。
モクバと会った。
「兄サマ!」
「おはよう、モクバ」
「おはよう、兄サマ。ちゃんと熱、下がったみたいだね」
良かった、と笑うモクバ。
……熱?
何の事だ?、と首を傾げる俺に、モクバは。
「あー、やっぱり気付いてなかったんだね。兄サマ、ずっと熱があったのに何時も通り仕事してたんだぜぃ?」
社員は皆気付いてたみたいだけど、と苦笑する。
「薬渡しても自分は元気だからって飲もうとしないし、足取りふらふらなのに何故か何時も以上に社員へのあたり厳しいし、俺のお願いも聞き流すし…」
「そ、そうか…」
苦労かけたみたいだな、とモクバの微かに拗ねたような表情に申し訳なくなる。
それでもモクバは気にしないで、と笑って。
「神様にお願いしてみたんだ。薬も俺でも駄目ならもう何とかできるのは神様しか居ないよ!、って」
効くもんなんだね、とからからとモクバは笑って朝食にしようとリビングへと歩いていった。
その言葉に立ち止まった俺を置いて。
「…神様?」
何だろう。
もやもや、する。
けれど。
「……何、だ…?」
何かが胸に
決して忘れる筈はない自分の名を忘れたかのような感覚。
名はそれだけで存在を認めるもの。
存在を形作るもの。
名がなければ、存在は在り得ない。
「何故…」
遠くで兄サマと呼ぶモクバの声がする。
あぁ行かなければと思うのに。
足が動かない。
縫い付けられたように立ち尽くすだけ。
床の絨毯の色を所々変えながら。
俺は絶望の声を零す。
「―――お前は、誰だった…?」
瀬人。
そう俺の名を呼んでくれた人の名を、俺は確かに知っていたのに。
もう心にその名は、なくて。
20091020
〈無神論者は神様に恋をした。それが悲劇なのではなく、無神論者が人間だったことが、そもそも悲劇。〉